オンライン着物セミナー 後期開始準備

オンラインによる着物セミナー、前期3月から6月までの5回を終えて、7、8月はお休みしていました。

9月から再開するために、準備に入った所です。

次回のテーマは、『着物の歴史』です。

着物・衣服の歴史に最初に登場する『貫頭衣』について改めて確認しようと調べ始めました。

ところが、縄文・弥生の時代の亡羊とした歴史認識の中に、今までに知らなかったこと、わからないと思っていたことに、私にとっては新事実とも言うべき歴史が見えてきたのです。

日本の古代史の謎の中で光が当たって見えてきたものがあります。

セミナー内容とは少し別な位置になってしまいますが、興味深い話が次から次へと出てきたその 驚きと感動をお伝えできればと思います。

(注BCは紀元前 ADは西暦=紀元 ○○年)

日本人のルーツ「縄文人・縄文時代は、およそBC13000年〜BC2300年まで」

その後が弥生時代は、BC1000年 またはBC500年、BC400年ごろから紀元AD300年中頃まで

日本人のルーツとして、興味深い所ですが、縄文人と弥生人とのルーツは繋がっていないということだという。

(「倭」「倭人」について 張 莉氏 立命館大学 論文

「倭人・倭国伝全釈」 鳥越皓之 大手前大学学長)

上記以外にも書かれた本からの内容紹介がいくつか目に止まりました。

「ヘェ〜」と驚きを持って知ったところをあげてみます。

1. 縄文人と弥生人は違う人種。渡来のルーツが違う。

縄文人は東南アジア

などに目を通していくと、

まず改めて、日本の、日本人のルーツ、そして、日本の歴史のルーツについて、ほとんど知らないことに愕然とする。

縄文時代は世界史の中では中石器時代ないしは新石器時代に相当する。

旧石器時代(非定住狩猟採集社会)と縄文時代の違いは

土器と弓矢の使用、磨製石器の発達、定住化の始まりと竪穴住居の普及、環状集落等の定住集落や貝塚の形成、植物栽培(半栽培)の始まり。

世界の歴史のメソポタミア文明の始まりや、ピラミッドの建設、中国の春秋時代など、それぞれの時代に対応する縄文文化その後の弥生時代の文化がある。

しかし、日本は島国で、隣国からの外敵に襲われる心配もなく続いて行った縄文時代は、文字の文化がなく、後世に記されたものとして残されたものがないために、遺跡や発掘された土器。土偶と言ったものからの研究を待たなければならない。それを知るための研究者たちの努力で少しずつ明らかにされていってるのでしょう。

縄文人の衣服は、アサやカラムシ、アカソなどの植物繊維から糸をとって編んだもの。

植物繊維の布きれなどが遺跡から発見されている。

縄文時代は氷河期の後の温暖化の時代その後再び気候の寒冷化によって、徐々に衰退していった。

人口

縄文時代 26〜27万人 身長男157cm 女145cm 筋肉質、ほりの深いクッキリとした顔

縄文人は様々なルートで日本に移住した様々な人類集団の子孫である。

主に古代ユーラシアの集団、そして様々な東アジアに関連した集団からなり、混血が起こり、その後も絶え間なく東アジア沿岸部からの遺伝子の流入があり、多様性のある集団となった。それは弥生人が到来する前に均質化した。

縄文時代は氷河期の後の温暖化の時代その後再び気候の寒冷化によって、徐々に衰退していった。

弥生人 朝鮮半島とアジア大陸等からの渡来した「大陸系弥生人」また縄文人が直接新文化を受け入れた結果誕生した「弥生系縄文人」「混血系弥生人」とからなる。

弥生時代とは水稲農耕技術が安定してきた時代。(今までの説より早くなっている)

人口 は約60万人 稲作水耕栽培が始まり人口の増加が見られた。

早期はBC1000年頃から、前期BC800年ごろ、中期BC400年頃、後期AD50年頃

(古墳時代はほぼ従来通り3世紀半ば〜)

これらのことから見えてきた驚きのこととは!?

1.縄文人と弥生人が別の人種であると言うことです。

例えば、現在日本という国に生きている私たちが、何百年か何千年か後には、今の日本人のDNAと違ったDNAを持った人種になっているかもしれない?と言うことを考えると、びっくりですね!

そうはならないかもしれないけれど、今の世界の国や人種が違うことでの争いが、世界一つの人種になり、地球という一つのワールドでまとまる時代がくるとしたらそれは素晴らしくも嬉しいことですね。

戦争という醜い戦いではなく、自然淘汰としてのワンワールドができれば!!

2.弥生時代後期 の「魏志倭人伝」は、中国の三国時代の魏の国の文書に残る。

3.日本は外敵の侵入などの恐れがなく、大規模な戦いもなく、平和の故か、文字ができたのが遅い。

遣隋使や遣唐使などによって中国からもたれされる以前にもあったのだろうか?

仏教文化の伝来に伴って文字が入り、日本のかな文字、カタカナなどもできてくる。(平安時代の源氏物語等の頃にかなり一般的になってくる。

日本書紀以前の文献がないために、日本の文化は未知なことが多いために、他の世界の文化の発展より極めて遅れていると思っていたが、、、

2.世界の歴史と日本の歴史を並べてみると(この下年表は私の覚書の意味で書いています。必要ない人は次の見出しまで下にスクロールしてください)

ローマ帝国 アウグストゥス(BC27〜BC14年)〜コンスタンティノス11世(1449年〜1453年)

中国の歴史

北京原人が直立歩行した石器時代から現在まで5000年

黄帝(BC2717〜BC2599)の時代

<ここまで日本の縄文時代>

<BC1000年〜弥生時代>

古代中国BC1600年(商王朝・・記録の残る最初の王朝・・甲骨文字)〜BC221年

春秋戦国BC770〜BC221年・・孔子や老子

秦始皇帝BC221年〜BC207年 <史記の記録として徐福一行日本に渡る>

漢(BC206~220)

三国時代(220年〜581年)<魏志倭人伝><絹織物を献上>

隋(581年〜618年)

唐(618年〜907年)

宋(960年〜1297年)

元(1271年〜1368年)

明(1368年〜1644年)

清(1644年〜1912年)

帝国時代はBC221~AD 1912年

1912年〜1949年中華民国時代 1949年〜近現代

前漢、後漢の後の『三国志』魏・呉・蜀 の時代 三国時代

魏志倭人伝 卑弥呼 弥生時代後期

中国への朝貢 (王勇著「中国史のなかの日本像」から)

1.)司馬遷『史記』(新始皇本紀)BC221年〜BC207年の中の徐福渡海の記録で

<童男、童女数千人を蓬莱島(日本)に送る>とある。その子孫は全て秦氏と名乗る。

2.)『漢委奴国王』(漢倭奴国王)金印AD57年、日本からの朝貢に対しての返礼品として漢の光武帝より授けられたもの(江戸時代1784年に福岡県志賀島にて発見される)

後漢 AD25年光武帝〜220年

3.) 238年 魏が朝鮮半島を征略 239年卑弥呼が使者を洛陽(魏の首都)に送る。

<男4人、女6人、班布二匹二丈>献上 ※ 班布とは麻や植物繊維で織られた布

4. )243年日本からの献上品生口と錦類

5. )265年魏のサスとエンペラーに朝貢ののち、266年晋王朝にも朝見

上記の朝貢品の中で目を惹かれたのが織物の類である。

さらにその中の絹製品については、中国が極秘にして輸出をかたく禁じていた養蚕と製絹の技術を倭人がすでに知っていたことを物語り、魏王朝に意外なショックを与えたかもしれない。そしてそれは中国で好評を博していた証拠と見られる。倭人は早くから精緻な錦物を作る、という驚きを持って迎えられていた。

紀元前100年頃の弥生遺跡から絹布の遺品、 あしぎぬ が出土している。

邪馬台国の時代、弥生時代の後期は、すでに絹の製造技術はかなり発達していたと思われる。

※これは前述の【1.司馬遷『史記』(新始皇本紀)BC221年〜BC207年の中の徐福渡海の記録で

<童男、童女数千人を蓬莱島(日本)に送る>とある。その子孫は全て秦氏と名乗る】

といった過去の渡来人たちによって、もしくは、それ以前に何らかの方法でやって来た渡来人たちが持って来たと思われる。

中国の養蚕、絹の歴史はBC5000年にも遡ります。BC3000年に発見された甲骨文字の中に「蚕」「桑」「絹」「絹織物」と刻まれている。

BC5世紀までには蚕が飼育されていました。とあることで、上記『司馬遷の史記』の記録の時代も一致はするのだが(ここで日本に絹、蚕、養蚕がもたらされたとは記録にはない。・・・門外不出の蚕故か?)

渡来人の二大系統の秦氏と漢人はそれぞれ「ハタ」「アヤ」と読みいずれも紡績と深いつながりがあったことがうかがわれる。また306年、渡来漢人の阿知使主(あちのおみ)らが呉に派遣されて兄媛えひめ・弟媛おとひめ・呉織くれはとり・穴織あなはとりの4人を日本に連れ戻した。

この時代に興味を持ったきっかけとなったのは?

「三国志」を読んだ時の感想として強く残ったことの一つに、当時の中国文化にカルチャーショックを受けたことでした。

それは、三国志の世界で戦いという場面はもちろん多いけれど、その戦いの現実の中での、食物、衣服、使われている道具などを想像した時、その時代の文化文明が、日本の弥生時代が何とも原始時代に思えて、それと比べて、ずいぶん進歩している文化に愕然とした覚えがありました。

やはり中国文明は何千年も先に発展しているのでは、との興味を抱き、それがひいては中国の時代小説へと繋がっていたのです。

今回、改めて、《着物の歴史》について調べようとしたことで、はからずしも日本の古代の歴史が身近になって来ました。

それは、縄文、弥生という古代の歴史のほとんど知らなかったことが、少しだけ明らかになってきたことです。

前述の中でも触れている通り、文字文化の出現が遅かったことでの記録がなく、研究者も、現地調査などから掘り起こすことや、海外、特に中国の文献から研究していくというかなり大変な作業を積み重ねて、現在の内容までになって来ているということです。

まだまだ知られざる部分もあって、この先に明らかになっていく事実、事象も楽しみにできることかもしれません。

結果から改めてわかることは、縄文、弥生の時代、特に弥生時代にはかなりの文化、文明が築かれていたのだろうということです。

一方で、外敵との戦いの心配がなかった分、外国に比べて穏やかな生活を送れていたのだろうと、そう思うことでホッとする自分がいることに気づきます。

実際のセミナーでは、このあたりはさわりとしてお話しして、その後は飛鳥、天平時代以降の着物の変遷をお伝えしていきます。

ご興味ある方は、ぜひオンラインセミナーへのご参加をお待ちしています。

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