七夕も何となく過ぎて行きましたね

織姫と彦星の年に一度の再会の日。

例年だと浴衣を着て、笹竹に願い事を書いた短冊をつるす。

去年、今年と何だか雲間に隠れてしまったように、静かになってしまいました。

もう3年前になります。

楽しかった七夕のイベントでもう一度七夕を思い出したいと思います。

2018年7月7日 七夕まつり イベント開催 

     たまプラーザ さんかくBASE Wise Living Lab にて

7月7日は浴衣の日という事でもあるようです。季節的に浴衣が良く合う行事ですね。

2018年開催した「浴衣で七夕を楽しもう」

このちっちゃいお子さん、あれから3年。3~4歳になられて、元気な可愛い女の子におなりでしょうね。

当時は英語バージョンのチラシも用意していましたね。懐かしく、また楽しい思い出です。

星に願いを   七夕伝説

奥が深いというか、歴史が長く、短く表現するのにはかなり難しいところです。

2018年のイベントの際にまとめたものです。

それを、参加者に説明も加えてお配りした資料です。

簡単すぎて分かりにくいかもしれませんが、でも今改めてまとめようとした時に、

「なんと簡潔にまとめたのだろう!」と自分ながら感心してしまいました。

この時は、図書館で関係する本を司書の方に選んで貰ったりして調べた物です。

ただ、少し補足していきます。

☆主にwikipedia、他から

織姫と彦星の年に一度の再会の日という事は誰でもが知っているお話ですね。

1.【織姫・彦星】 中国に古くから伝わる伝説

                    中国から伝わったお話ということで、中国の書物に最初に書かれているのが漢の時代の書物だそうです。                                               漢の時代:紀元前202年劉邦が前漢を建国  紀元25年後漢の建国 (どちらの漢かは記入無し)

<その内容は>

天帝のそばで織女として働いていた織姫(天帝の娘)、まじめでいい仕事をする女であった。しかし、自分の風貌などに頓着

なく、それを見た天帝は哀れみ、牛飼いをしている働き者の牽牛と一緒になることを許した。

その後二人は楽しい生活を送りつつも、機を織ることをおろそかにした織女に天帝は、二人を天の川の西と東に引き離してしまった。

ただ7月7日の夜だけは二人が会う事を許した。という伝説です。幼稚園などでもこの様なお話のもと七夕祭りをやっていることで、よく知られたお話ですね。

歴史的にさかのぼれば

前漢(紀元前202年建国)の采女が7月7日に、織姫と彦星の逢瀬を祝い、織姫にあやかり機織り

等の技芸の上達を願い、巧みになるように七本の針の穴に美しい彩の糸を通して捧げものを、庭

に並べて針仕事の上達を祈った行事・乞巧奠(きこうでん、きっこうでん)という風習が記され

ているという。

南北朝時代(紀元4~6世紀)の書物には 次1.2.が関連付けられています。

                       1.牽牛と織姫の再会する夜であること。

                       2.乞巧奠の伝説。

2009年 文京区本郷 神社の名前が分からないのが残念です。

現代でもこういう風習が現実にあるのですね。

と言っても10年以上もの前の写真ですね。

2.【奈良時代に中国から伝わった7月7日の風習】 

奈良時代(710年~793年)

日本に伝わった奈良時代には、貴族の文化、貴族の風習として行われていました。

七夕を「たなばた」と読むのは何故? 棚機つ女(たなばたつめ)の伝説

「乞巧奠」が七夕の節句に変化していったようですが、もともとは「七夕」とかいて「しちせき」と読んでいたのが「たなばた」と

読むようになったのは、日本古来の「棚機つ女(たなばたつひめ)」の伝説に由来するといわれます。

「棚機つ女(たなばたつめ)」とは、神様を迎えるために水辺に設けた機屋に入り、棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機で神様に捧

げる神御衣(かんみそ)を織り上げる女性の事です。

そして、中国の織姫と日本の棚機つ女が結びつき、七夕と書いて「たなばた」と読むようになった、という事です。

奈良時代の風習

中国から乞巧奠の風習が伝わり、貴族たちは庭に祭壇を設けて供物を供え、梶の葉に和歌を綴ったり、7本の針に五色の糸を他足て裁縫の上達を祈ったり、盥(たらい)にはった水に星を写して眺める「星映し」などを行うようになりました。

kかmかみ紙

梶の葉:大きくてかたい葉っぱに文字をかいていた。紙などが貴重という時代背景も見えてきますね。

梶の葉紋(神社などに多い)

また、里芋の葉を天帝の水を授かる傘と考え、里芋の葉に溜まった夜露で墨をすって文字を書くと、長いが叶うとされています。

子供のころの七夕祭り

山から取ってきた真新しい竹

朝起きて裏庭の里芋の葉っぱに乗っかっているキラキラコロコロと転がる真珠のような朝露を集めて、硯に入れて墨をする。

短冊に切った色紙に願い事を書いて、和紙で作ったこよりを短冊に通し

笹に結びつけ、軒先や縁側にたてつける。

こよりとは、和紙を細く切ったものを親指と人差し指で巻くようにして送っていくとしっかりとしたひも状になり最後を少し残すことでストッパーの役目も果たせるものです。ちなみにティッシュペーパーを2cm幅くらいに裂き端からやってみてください。和紙に比べたら弱いですけれど、形は作れます。便利なグッズがいっぱいある中、なかなか出番は少ないでしょうけれど、覚えておけば何らかの役に立つときもあるかもしれません。

江戸時代には 五節句(1月7日 3月3日 5月5日 7月7日 9月9日)(陽数が重なるおめでたい日)の一つとして庶民にも広がっていった。   

手習いごとのをはじめとして様々な願いごとを短冊に書き、笹の葉に吊るし、お星さま(織姫・彦星)にお祈りするという

ことが伝わっていった。

旧暦の7月7日は現在の新暦のほぼ1カ月くらい後、8月になります。なので雨も少なく、また月も上弦の月で早く隠れる事で明るさが無くなり天の川も見えやすくなるという事だったようです。

また、七夕の時に降る雨を「催涙雨」といって、会えない二人が流す涙と言われています。

  夜空の 織姫 彦星と天の川

今では、天の川が見られる地域は限られていいます。七夕伝説・七夕まつりの意識も商業的なものになりつつありますね。
時には空を仰いでロマンティックな織姫、彦星の事を思うという時間があればいいですね。

五色の短冊の五色とは?

今一つ、七夕には、「五色の短冊・・」とありますように、歌にも歌われた 【五色】とは赤・青(緑)・黄色・金(白)・黒(紫)

で、こいのぼりの吹き流しや神社、相撲の天蓋など、いろいろな所で使われています。

昔から使われている縁起のある色となっています。乞巧奠の五色です。(上の写真参照)

 七夕の奥の深さよ!

歴史の長さ故、そして中国の遠い昔からの伝説故に、調べていきながら、行きつくところを知らず!

一つの事から、枝葉の一つ一つが調べる事にぶつかり、そこに踏み込むと、アリジゴクのように元の幹に帰ってくるのに一苦労。

何日もかかり、もう七夕過ぎて削除も考えたけれど、取り敢えずこの段階でアップすることにします。

遠い先、来年、ここにプラスして書き込む内容が出てきた時は、それを加えて再度アップ出来れば。